まんがタイムきらら大好き!

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カレンチャン(ウマ娘)と感傷マゾ。

 こんにちは。ウマ娘はプレイしておられるでしょうか?私は来たるべきアドマイヤベガミスターシービーマチカネタンホイザのため石を貯めながら細々と続けております。先日無事ライブラ杯ブロンズを獲得致しました。

 

 さて、今回のイベントで追加されたカレンチャンSSRサポートカードのイベントを回収し、居てもたっても居られなくなったのでこの記事を執筆する次第であります。カレンチャン育成シナリオのネタバレを含みますのでご容赦ください。

 

 カレンチャンは他のウマ娘と違い、最速でも最強でもなく、「カワイイ」の追求を第一目標に掲げるウマ娘です。常に一番カワイイ自分であるために、オシャレもライブもレースもSNSも、ひたむきに貪欲に研鑽を重ねる。これは本当にすごいことで、速さや強さと違い「カワイイ」は明確な指標が存在しません。なぜなら「カワイイ」とは人によって全く意味が違ってくる曖昧で不確かなものだからです。それでも彼女は、その曖昧で不確かなものを、ただ自分だけのアイデンティティーとすべく奮闘するのです。この過酷な戦いに挑む彼女の根幹を支えるのは絶対的な自信です。「自分はカワイイ」という絶対的な自信。自身の才能への絶対的な信頼。「自分を信じて突き進む」ということを、ある種狂気的な領域にまで達しながら行えるこの様が、とてもまぶしい。だから私は、このキャラがとても好きです。自分にないものを持っているから。同じ理由でオペラオーも好き。

 

 カレンチャンは生まれながらにして「カワイイ」の追求者でしたが、その道を確かなものにした彼女の立脚点ともいうべきイベントは存在します。それは、あなたの記憶の中にもあるはずです。思い出しませんか?遊園地で遊んだ帰り道、お母さんとはぐれて泣いている子を見つけて───────

 

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 ───とまあ。幼い頃遊園地で出会い、自分の夢を告げ、それを笑わずに背中を押してくれた男の子(or女の子)、そのエピソードがカレンを支える自信の支柱として今日まで機能しているわけです。そして、カレンの夢を後押しした子供こそが我々トレーナーであり、お兄ちゃんであり、お姉ちゃんであるのです。カレンチャンの育成シナリオでは、我々である「お兄ちゃんorお姉ちゃん」がカレンと運命的な再会をするところから始まり、カレンがカワイイの覇道を突き進んでいくのをサポートしながら、カレンチャンというウマ娘に惹かれ、深い絆を構築していく流れが描き出されています。トレーナーはカレンチャンの魔性の魅力に完全に囚われ、カレンもまたトレーナーを放さないという、この二者だけで完結した関係がたまらなく良くて、”ヒロイン”カレンチャンのベストエンディングとして完璧に、美しく仕上がっています。

 

 カレンチャンの育成シナリオをこなした人間は、この結末を知っています。カレンチャンを担当ウマ娘として選んだ場合の未来。美しい二者関係。カワイイカレンチャンがカワイイカレンチャンであるための、ひとつの幸福な在り方。

 

 だからこそ、SSRカレンチャンのイベント、そしてダイワスカーレットファン感謝祭イベントに出てくるカレンチャン、これが、とても残酷に感じてしまうのです。

 

 SSRカレンチャンは、カレンチャンの育成には使えません。つまり、SSRカレンチャンというサポートカードに登場する世界線カレンチャンは、我々と担当契約を結んでいないカレンチャンなのです。だけど、その世界線でも我々はカレンチャンと出会っているはずです。子供の頃、遊園地で。それは我々にとってはなんて事のない、時の摩耗によって失われてしまった幼き日の思い出の一ページでしかないにしても。例え奇跡的な再会を果たして相手の顔を見ても、全くの初対面に感じてしまうとしても。

 

 だけどカレンだけは覚えている。数分に満たない会話だったとしても、初めて自分の夢を肯定してくれた経験はカレンの血肉の一部となって消えない爪痕を残している。だからどんな世界線においても、カレンはトレーナーに全幅の信頼を置いている。既にトレーナーには別の担当ウマ娘がいるのに、甘えてしまう。そんなカレンチャンを見てると……ううう……うおおおおおーーっ!なぜだぁーーーっ!!!なぜ俺はァーーーーーッ!!!!

 

 あったはずの未来。カレンチャンとの幸福な未来。僅かな出会いのすれ違いで、それは容易に失われてしまった。その未来を、カレンチャンだけが夢想している。俺たちだけが知らない。なぜカレンチャンが自分に付きまとうのか、なぜミスコンに来てほしいなんて言われるのか。無差別に唾でもつけてんじゃないかという下衆の考えが頭を過ぎりかねない。違うのだ……。彼女はただ純粋な思い、「カワイイ」で皆を幸福にしたいという夢、それにただひたむきなだけなのだ。

 

 たとえ「お兄ちゃんorお姉ちゃん」との再会が遅かったとしても、カレンの本質が変わることはない。何にせよ、カレンチャンは絶対的な「カワイイ」の伝道者である。そこに「お兄ちゃんorお姉ちゃん」という存在がいるかどうか、という違いでしかない。カレンは何も求めない。「カワイイ」と言ってくれさえすれば、それ以上を要求しない。別の娘のトレーナーだから、「トレーナーさん」なんて他人行儀な呼び方をして……うるせえ!どけ!!俺はお兄ちゃんだぞ!!!

 

 カレンチャンを育成しない限り、トレーナーにとってカレンチャンはどこまでも「他人」であり、カレンチャンにとってのトレーナーは「お兄ちゃんorお姉ちゃん」には成り得ない。だけど、カレンチャンは「お兄ちゃんorお姉ちゃん」を求めている。それを見る、第四の壁の先にいる我々プレイヤーは、カレンチャンとの「あったはずの未来」───残酷にも、ダイワスカーレットを育成している世界線では、絶対に起こり得ない未来を想起させられる。この無為な喪失こそが感傷マゾだ。ウマ娘をプレイし続けるにはカレンチャンばかりを育てているわけにはいかない。SSRカレンチャン自体今後も色んな育成に使いそうなくらい強い。ホームに置くカレンの笑顔を見るたびに、胸が締め付けられるように痛むのだ。

 

 チュートリアルダイワスカーレットのファン感謝イベにカレンチャン登場させた奴人の心ない。天然小悪魔系女子的な描写を後から二重の文脈に回収していくのマジでうまくて腹立つ。はあ。ウマ娘のテキストの中でも屈指の出来なのが、このカレンチャンにまつわるストーリーのすべてだと思います。かしこ。

『またぞろ。』に人生を変えられた男の怪文書。

  『またぞろ。』────この物語は「穂波殊」が「穂波殊」を知るための、闘いの記録である。

 

 

 この漫画は各キャラクターそれぞれにテーマ性が込められている。「穂波殊」、「六角巴」、「堤麻里矢」……彼女ら一人一人に固有の問題があり、物語があり、物語同士が糸と糸が絡まり合うように交錯し、互いに影響を与え合っている。故に、この漫画を包括的に語ることは非常に難しい。テーマが一つではないのだ。今回は、『またぞろ。』をあくまで穂波殊の物語として解釈したときに、何が見えてくるかという話をしたいと思う。

 

 穂波殊という人物像を語るにあたって、キーワードになるのは「自分」という言葉だ。今後の説明を理解しやすくするためにも、ここで改めて「自分」という言葉を再定義しておこう。

「自分」というモノは一つの言葉で括られているが、明確に性質の違う二つに分けることができる。

・一つ目は「今、ここにいて、見て、聞いて、触れて、考えている「あなた」」である。簡単のため、これを「自我」としよう。

・二つ目は、「自身の身体、能力、他者から見た「あなた」といった、外的なものに決定された「あなた」」である。これを「属性」と呼称しよう。

わかりづらいなら、「「あなた」の、自我でない領域すべて」と言い換えてもいい。兎にも角にも、この二つは「自分」という言葉で置き換え可能ながら、全く別の性質を持っているのだ。

 

  例えば六角巴。彼女は「イケメン」であり、「老獪な性格」で、「優しく」、「人に好かれて」いて、「写真を撮るのが上手い」。ハムちゃんにとっての彼女は「かけがえのない親友」で、殊にとっての彼女は「意地が悪いが気の置ける友達」。これが彼女の属性だが、それとは別に彼女にも自我があるはずだ。彼女の自我が思考し、行動を起こすからこそ彼女の属性が形成される。勘違いしてはならないのは、「本当の彼女はみんなが思っているような性格じゃなくて、本当の彼女は~」なんて話をしているわけではない、ということだ。そもそも「本当の自分」なんてモンはない。ただ一つ確かなことは「おれはこの世界に実在している」という確信のみで、それこそが自我だ。

 

 もひとつ例を出そう。与えられた命令に対し、スペックが足りる範囲で応えてくれるロボットを想像するといい。「走れ」と命ずれば走るし、「気の利いた冗談を言え」といえば言う。だけど、そいつは冗談を言うのはうまいが、走るのはからっきし駄目だ。こういったステータスがまず属性にあたり、このロボットが活動する様をみて、「こいつは話が面白い奴だ」とみんなが思うようになる。そうしてロボのステータスが更新され、また新しい属性がロボに付与されていくわけだ。そのロボを操縦しているなにか──すなわち自我は、その様を見て「ああ、こいつはだいたいこういうヤツなんだな」という理解、すなわちロボに付与された属性を情報として処理し、次の指令を下す。「自我」と「属性」の関係は概ねこのようなものと考えていい。

 

 本題に入ろう。上記の話を踏まえれば、穂波殊の抱える問題は自ずと見えてくる。

気付きはしないだろうか。彼女は自分ができること、できないことに対して何も知らない。

気付きはしないだろうか。彼女は「穂波殊とはこう在らねばならない」という理想を掲げるばかりで、「広幡詩季にとっての殊」「堤麻里矢にとっての殊」にはてんで無頓着である。

彼女は知らないのである。「穂波殊」の持つ属性を。いや、そもそも他者から与えられた自分像というものの存在を認識できていない。穂並殊にとって、「自分」とは絶対的な「穂波殊」そのものに過ぎないのだ。ロボットの例でいうと、自分が外側からロボットを操作しているという事実が理解できず、ロボットそのものが自分自身であると錯覚してしまっているのである。

 

 これは結論だが、穂波殊は自分を俯瞰する視点を持てていないのだ。

「他者によって定義された穂波殊」というものが存在しない。すなわち自分の属性が見えていない。彼女にとっての「穂波殊」は彼女自身の主観、価値観による独りよがりなもののみで、それが彼女の言動すべてを説明可能にする。

「留年生」「ダメ人間」というのはいずれも穂波殊を外部から客観的に分析した結果に過ぎない、彼女の「属性」である。しかし、彼女はそれこそ自分のすべてだと思っている。だから彼女だけ「留年」という言葉に過剰に反応する。自虐を多くするのは、それが彼女の自己表現の一つになってしまっているからだ。

自立した人間を志す割に、具体的なプランを何も練らない。虚弱な肉体、脆弱な精神性という属性は変わらないということを知らないのだ。だからこそ、ダメ人間はダメ人間なりに生き方を工夫する必要がある。彼女にそんな発想はないし、気の持ちようでなんとかなる限界があるということがわからないので、できもしない約束を取り付けてしまう。穂波家勉強回の殊が自分の部屋を片付けようとして数十分詩季らを放置するところが顕著だろう。

ひいては彼女の発想そのものである。「今までの穂波殊は壊して、新しい自分に生まれ変わらなきゃ」。ホナミロボにそんな機能はない。てか人間にそんな機能はない。勿論外からのイメージとしての自分は変えることができる。それにつられ精神性が変容することもある。しかし、生まれ持った肉体や能力は変えられない。穂波殊は穂波殊のまま変わっていくしかないのだ。

 

 人は、人との関わりによって成長する。たくさんの人との交流を通じて自身に与えられた属性を見返すことで、それに応えるように「自分は何をすべきか」「どういう人間であるべきか」という道を決めていくのである。これをアイデンティティの獲得という。この属性という情報が不足すると、自分の歩むべき道がわからなくなり、精神的に不安定になる。これが主に高校~大学生辺りの青少年を悩ませる、アイデンティティ拡散である。穂波殊はこの土俵にすら立っていない。「自分とはこういうものだ」と勝手に決めつけ、そこで固まってしまっている。それではだめなのだ。それでは彼女は変われないし、救われない。

 

 この物語は、そんな彼女を救済する物語なのだ。穂波殊が真に自分の属性、「穂波殊」自身を知り、向き合い、克服する。そうして本当の「穂波殊が歩むべき道」を見つけ出す。それは本当になんでもいいのだ。堤麻里矢の奴隷になろうが、広幡詩季と人生を謳歌しようが、はたまた彼女一人で歩んでいく道を見つけようが、彼女が自分自身の価値を見出したうえで選んだことならば、それは彼女の物語にとっては幸福なことだ。

 そしてこの漫画は、そのための道をきちんと用意している。

詩季「焦らなくていいよ。少しずつでいいの」

 詩季のこのコマは俺が『またぞろ。』を読んで初めに衝撃を受けたコマだ。「新しい自分に生まれ変わらなければ」という、「今の自分」を否定する殊に対し、「そんなことをする必要はない」とはっきり言ってのけたのである。詩季は今の、ありのままの殊を受け入れている。無理に代わろうとする必要はない、きみはきみのまま変わっていけばいいと。だけど、殊はそのメッセージには気付かないのである。

巴「しっかりしなきゃってのは超偉いと思うけどさ、無理してしっかりする必要もないだろ」

 このコマに限ればはっきり言っている。「なんせ私らは留年生なんだから」には、「できること」と「できないこと」の線引きはあって、それに従うのは決して敗北でも、悪いことでもないという優し諭しが見えてしまうのだ。

 

 堤麻里矢は、ヒールである。さながら人形のように、かわいいままの殊を閉じ込め、支配し、手元に置いて愛でていたいという欲求を持っている。殊は、未だその狂気に自覚的でない(殊がいったん麻里矢のもとを離れたのは、本能的に危険をかぎ取ったからという見方もできるが……)。しかし、いずれ殊は麻里矢の狂気に気付くだろう。「堤麻里矢にとっての穂波殊」がどういうものかを知る。今の彼女では未知の領域である、「他者から見た穂波殊」を自覚するイベントである。その時彼女が麻里矢を受け入れるか、突き放すか。その決断が殊の成長、巣立ちの最初か最後の引き金になるのだと俺は予想している。

 

 彼女から離れたことで、留年生仲間を通して彼女の交友関係はぐんと広がりを見せた。詩季たちとの友人関係は、今後も殊にとって有益なものを齎すだろう。

 

 さて、これがこの作品における穂波殊に与えられた「課題」だが……この課題は、多くの人にとって他人事ではないはずだ。自分を俯瞰して見れないことが殊の問題だと言ったが、そもそも完全に自分を俯瞰できる人間なんてこの世に存在しない。誰もかれもが、自分というものの存在を掴みかね、懊悩している。掴んだ気になって、その結果大きな失敗をしてしまい、傷ついている。俺たち人間が抱えた永遠の課題を、「穂波殊」という極端なキャラクターを持ち出すことによって自覚的にさせてくれるのがこの作品だ。

 そのためには、これはきらら作品でなくてはならなかった。きらら作品は……日常系は、「物語を俯瞰する視点」というテンプレートが染みついている。『あずまんが大王』を思い浮かべてもらうのが一番わかりやすいが、誰か一人主人公の視点を取らず、モノローグを入れず、第三者の視点でキャラクターを均等に描く手法である。

 これは、あくまで日常系は「日常」そのものを被写体に取っているという性格が大きい。日常の合間に触れ合う女の子たちの何気ない仕草、他愛もない会話、幸福な空間、そういったものに目を向けるには都合がいいのである(むろんそうでないきらら系作品を批判するつもりはない。ただ、ジャンルが違うよなあとは思ってる。)

 この漫画は、その「視点」を使うことで、物語の中で穂波殊という人間の異常性を際立たせることに利用したのだ。穂波殊の描写と同等に、特に巴というキャラクターを強調して書くからこそ、巴と殊の違いが明瞭になる。殊の自虐や、行動がどうにも矛盾のない論理で動いているものとは考えにくくなる。何より、こんなに周りから愛されている殊が、自分を責め立てていることに疑問を覚えてしまう。

 そうして穂波殊を「俯瞰」して眺めてるうち……それは自分自身をも俯瞰していることに気付くのだ。その気付きは、やがて自分自身を救うことになる。

 

 俺は、そうやってこの作品に救われた一人だ。何をやってもうまくいかなかった。自分の理想にはてんで近づけなかった。そんな自分が嫌いだった。けれど、そんなことに意味はないと知れた。どんなに無能でクズでも、そんな自分を受け入れない限り前には進めないと気付けた。だからこそ、この作品は特別だ。俺にとっての特別だ。偉そうに長々と書いたが、この解釈を他人に押し付けるつもりは毛頭ない。ただ、この作品の持つパワーというものを証明したかった。

 

 『またぞろ。』───この物語は、「おれ」が「おれ」を知るための闘いの記録なんだ。